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真珠湾攻撃から80年ー個人の歴史社会的責任について考える
今から約80年以上前の一時代、かつての日本国は真珠湾を攻撃した奇襲事件を契機にまっしぐらに太平洋戦争の過程へ傾倒していく。しかし全米に猛烈な反日感情を引き起こした1914年12月8日の真珠湾攻撃、いわゆるリメンバー・パールハーバーからわずか3年半の後、日本は悲惨な戦況を経験し、国際的に大方予期されていた敗戦の現実を期する。人間誰しも戦争をしようと自ら思う者はいない。しかし何故、日本という君主国家は日米開戦という一目して無謀な道を選択したのだろうか。ひいてはこの選択眼は当時の日本国民には一体どのように見えていただろうか。政治は、軍部は、外交は、何故に、本当に計算し尽くした上で勝気の勝算で臨んだ戦争だったのだろうか。若しくはその様な選択肢を選ばざるを得なかった特殊な事象や歴史的事由が介在していたのだろうか。
歴史を後から振り返ると、その後の歴史の積み重ねによる価値検証が上塗りされるため、その時々の判断を善か悪か、正当か否かを純粋に判断することに絶対的な限界が生じる。しかしそうした意味ではなく、ちょうど80年前の今日、日本が歩んだ日米開戦という選択とその行程について、国際的な政治背景を踏まえてあくまでも客観的に意味を問う作業は必要ではないだろうか。なぜなら第二次世界大戦、そして太平洋戦争の歴史と一続きの時間軸の上に、現代社会は存在しており、現代社会に暮らす全ての人々には、当然、次世代未来に向けた「個人の歴史社会的責任」があるからである。
今日、歴史を回顧するに「日米開戦への道程」とは満州事変から日中戦争そして太平洋戦争へと歩んだ最中に幾重にも繰り返された日本の外交交渉の失敗や国内政治における内部分裂が根底であると論証されている。中でも日米開戦の歯車へ矢先が向かった決定的なエピソードとして「国際連盟からの脱退」がある。当時の日本は、74年前に中国で勃発した9.18事件、いわゆる満州事変に対して世論も含めて満州国に対する敵対感情が台頭していた。1931年9月18日の満州事変では、旧遼寧省奉天、柳条湖において日本の経営する南満州鉄道の線路が爆破されたことを端に発して、日中双方が奉天の街で衝突した。第2次若槻礼次郎内閣は自ら退陣を余儀なくされ、事を仕組んだとされる参謀の石原莞爾を中心とする関東軍は、この事件を満州軍による日本を侮辱した卑劣行為であると一方的に断定した。新聞等のメディアも世論統制を操作し、満州国への侵略攻撃に乗り出した。時の若槻礼次郎内閣は満州事変不拡大の方針を主張していたが、関東軍はそれからわずか5か月余り後には、満州国のほぼ全土を武力制圧により鎮静、独立化させたのであるが、この侵略戦争行為が当時の中国と世界と日本の関係を決定的に決別した境遇としてしまった。つまりは満州国への侵略戦争を横行した日本の武力行為は、国際的にも連盟の同意に誠に違反する行動であるとして、国際連盟は全体一致の意見として強固に日本の満州国への侵略行為を遺憾し非難したのだ。
国際連盟総会では、案の状、12月6日の初日よりアイルランド、スイス、スペイン、イギリス、フランス、ほか数多くの加盟国より日本は強く非難された。日本の代表発言権を任されていた松岡洋右代表は、当初、心つもりとしては「どのような国際批判を受けても折衷案をひねり出し連盟に残留する」事を意中に考えていたことが知られている。しかしながらイギリス外務省を中心に中国も含めた当時のヨーロッパ全体に位置する国際世論では、脱帝国主義的な国家の有り方を模索する先鋭的な見方が主流化していた。しかし現実的には米国、イギリス、フランスなどの列強国はそれぞれ、インド、エジプト、マレーシア、(以上:米国)、アルジェリア、ベトナム(以上:仏国)、フィリピン、キューバ、パナマ(以上:米国)などの植民地を手放さなかったこともあり、列強諸国は本音と建前に、日本をはじめとする当時そこまでの戦力を持たなかった国々にはこうした権利を許さず、自国の権利は正当化していた。とりわけ1929年10月のニューヨーク・ウォール街の株価暴落に始まる世界大恐慌以降の経済的問題もあり、こうした列強国は自国の不利益になる行動は一切履行することができない状況に置かれていた。それを見た日本の立場としては、自らも1930年の昭和恐慌期に列強諸国の植民地政策に横並びしして自国の利益を追求すべく、関東軍が先陣を切りこの時期に満州国へ侵略した行為を、全く持論の正当性を主張して毅然と励行したのだ。しかしこの強固な行為こそが後々まで列強国諸国からの強い反感を響かせることとなる。
4日後の12月10日、国際連盟の会議ではイギリスと始めとする世界各国の日本非難はさらに強固となる。日本の思惑としては、国連総会より少し前に、国連理事会は現状把握と真相究明のためイギリスよりリットン調査団による訪問を受け入れ、日本国における満州国の占領を国際管理化にすることも含めた報告を受託する柔軟な意向を掲げていたのだが、これとて同時期に行われた日本の関東軍の侵略行為の断行により国際世論の二重の反感を負うこととなり、ひいては日本の国策や国家の態度までもが、国際社会からの信頼を損ねることに繋がってしまった。もっとも当時の日本政府の政権情勢は、こうした時期の前後にも相次ぐ総理交代を繰り返していた有様であり、その背景には各々の政党が政治体制に明確なるマニフェストを持たず不安定な政治政策を原因に、自国国民の信頼を全く得られていなかったことにある。しかし国民の信頼を失いつつあった日本国政府の立場としては、この満州国独立こそが政府の武勇伝であるとして、とりわけ当時の世論やメディアに後押される風潮を追い風に、満州国の誕生という事実に対して国民総意の大熱狂を実現した。こうして得た裸の世論を無視してまでも、日本政府は国際連盟という舞台においてイギリスを始めとする脱帝国主義と侵略戦争反対という大義名分に対してメンツもろとも従うことが出来なく頑固になってしまったのである。つまりは政治的国策の上で政治家が自らの考えでなく、国民世論や互いの損益、そして関東軍たる陸軍を始めとする軍部と政府が互いに暴走し、結果、国家一丸に連携した舵を取る機能を失ってしまった。その後の政府は、その場その場で懸命に奇策を模索するも結果的に国際連盟を強い態度で脱退したという功績を、国民には世界を隠すがごとく「日本の誇りである」とメディア的ヒーロー伝達を促し、素知らぬ顔でいて必死に政府への信頼を得ようと国民世論の操作を試みたのだ。確かにこの時期、国民は世界を相手に胸を張り意見を貫き通した松岡洋右の態度に熱狂していた。1933年にはナチズム・ドイツも国連を脱退し、イタリアも一党独裁のファシズムを形成し国連と対立を深めた。やがてドイツ・イタリア両国はフランコ将軍が率いるスペインで内乱を境に連携を強化し枢軸化した。重なること1936年に軍の要請から発足した広田弘毅内閣においては、ロンドン海軍軍縮条約とワシントン海軍軍縮条約の双方を失効し日本も完全に国際社会から孤立した。しかし現実、国際関係はけして緩く甘い情勢ではなかった。国際的な信頼を完全に失う道を歩んだ日本は、その先、孤立国家として“藁をもつかむ思い”で国際外交を展開するはめとなる。背に腹、広田内閣は、日独防共協定と日独伊三国防共協定を成立させ、大規模な軍備拡張計画のもと国内改革を進めた。しかし1935年には西安事件が勃発し、以降、中国でも対日世論が一気に高まりを見せ、そしてついに1937年、北京郊外の盧溝橋において日本中国の両軍は衝突した。この日中戦争こそが日本へ「大東亜共栄圏」の構想を抱かせ、果てはアメリカ・イギリスとの戦争の道を歩むことへと直結していくのである。こうして1941年12月8日、日本は日米交渉の道を自ら打ち切りし、日本海軍による「ハワイ真珠湾攻撃」を断行するに至った。
満州事変から日中戦争を経て日米開戦に至る時期の日本における国際外交は、先に示した如く、国際的な政治外交と国内における世論統制の狭間で大きく揺らぎ、方向性を見失っていたのではないだろうか。この時期の国際情勢はドイツのオーストリア、チェコスロバキア、ポーランド侵攻などの躍進劇も相まって、メディア統制された日本の世論は防共協定を鬼に金棒と掲げては国連からの脱退と国際的孤立を正当化していく。以後、時間経過的にも軍国主義を突き進む陸軍軍部と政党政治に鎬を削る内閣政府が連携することは完全になくなる。この両者は互いに独立した思想で国益と利益を独占し合う。互いの立場を尊重し合うことなく、面持ちを引かない姿勢を改めることもなく、身内で牽制し合う中で国際的な千里眼を盲目へと失っていく。つまり政治家の国際社会で外交政治を行う術が完全に断たれてしまった。当時の日本の国内世情を読み取るに、1941年11月に米国から直に突き付けられたハル=ノートの3つの要求、すなわち満州国の汪兆銘政権を否認すること、日独伊三国同盟の破棄、中国と仏印からの日本軍の無条件撤退を日本国民が総意して受諾できるはずなど毛頭ない。こうした戦時特有の歴史の流れと政治的外交や対話が弾圧された世論の動きこそ、好むと好まざるとを無関係に、日米開戦という転落の矛先に向けて日本が歩んだ道程に間接的に関与したと結論つけることに矛盾はないだろう。
いみじくも真珠湾攻撃と同じ、1980年の12月8日にはジョンレノンが撃たれ、2年前の2019年12月8日には初めて新型コロナウイルスが中国湖北省の武漢から報告されるや否や、世界は瞬く間にパンデミックに陥った。さらに追い打ちをかける様に、北京オリンピックをまじかに米中の対峙関係が、より一層世界を複雑化させていく。リモート化の進むコロナ禍の今ほど「外交対話」の重要性が説かれている時は過去の記憶にないだろう。ここはひとつ政治任せでなく「個人の歴史社会的責任」として、一人一人が差別や偏見なく国際対話の出来る未来に向かった行動を開始してみてはいかがだろうか。
参考文献
1.池井 優.『日本外交史Ⅰ』慶応義塾大学出版:2012.
2.中村勝範.『満州事変の衝撃』勁草書房:1996.
3.川田 稔.『満州事変と政党政治 軍部と政党の激闘』講談社選書メチエ:2010.
4.里美 脩.『新聞統合:戦時期におけるメディアと国家』勁草書房:2011.
5.佐藤 優.『日米開戦の真実』小学館文庫:2011.
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