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遠い日の記憶が迷い込んだ昨夜の出来事
自らの経験が記憶としてストックされ回想される過程においては、一定の時間軸が必要である。ほんの数日前の出来事を思い出すこともあれば、幾年も昔の記憶が突如頭に浮上することもある。今回は遠い日の記憶が迷い込んだ昨夜の個人的な出来事を綴る。
科学者が試験管内の変化を観察するように、今現在の自分が若き日の音楽作品を客観的に評価することは不可能である。なぜなら作品とは「モノ」であると同時に、その当時の自分自身が行っていた「こと」でもあるからだ。月並みな話だが、自分は中学から高校時代、モノと同時にことである音楽制作に明け暮れる日々を過ごした。当時の自分が描いていた夢は、ヤマハ音楽が毎年開催していたポピュラーミュージックコンテスト(通称ポプコン)、今でいうところのTeen's Music Festival (TMF) の全国大会に出場し、つま恋のステージで催される大会で入賞しメジャー・デビューすることであった。自分は幼少から学校の授業以外に音楽や楽器を習った経験はなく、技術も知識も能力もゼロだった。しかしそんなことは全く無関係な話で、当の本人は夢とは叶えるものだと信じて止まなかった。
1980年代当時、ニューミュージック、テクノ、そしてヘビーメタルが全盛の時代、今では考えられないが世間や学校生活では理由も無く電子楽器、特にエレクトリックギターやバンド系のファッションに抑圧的であった。放課後にレンタルレコード店に行き、深夜にカセットテープに録音する。小型化したSONYのウォークマンを制服の内ポケットにしまい袖にイヤホンを通しては、先生の眼をカモフラージュしながら刺激的な新譜に聞き入っていた。イマジネーションが湧くと急いで帰り、ドルビーノイズリダクションシステム付のダブルカセットデッキを前にギターと生声で弾き語りを録音し、またそこにエアーで音を重ねる。そんな地道な多重録音がその頃の自分の日常だった。
小さな転帰が高校1年の夏に訪れた。クオリティはともかく自主制作の楽曲が深夜のTBSラジオを通じてオンエアーされたのだ。当時の肌感覚が今でも忘れられない。それを契機に受験の2文字は完全に身体から切り離され、毎晩明け方まで曲作りに熱を注いた。満を持して挑んだ高1のポプコンであったが、結果はもちろん箸にも棒にもかからず予選落ち。再起をかけて準備した高校2年のポプコンであったが、この年以降、主催者ヤマハの都合によりポプコンは開催されなくなった。その背景は諸説あるが、1980年代末期に日本中を熱狂させたバンドブームの到来である。自主制作によるインディーズレーベルからファンを獲得してアンダーグランドからのし上がる、そんな日本の音楽文化はこの時期に確立した。有頂天、ラフィンノーズ、ブルーハーツなど、いずれも自由奔放パンクなインディーズ出身のバンドの出現に、心を熱くせずにはいられなかった。そして自身の目指す矛先は、ポプコンからインディーズに変わった。
高校3年の秋、無い小銭を叩いてマクセルのTypeⅡクロームカセットにダビングを重ねて初回限定300本のデモテープを制作した。ついに自分のインディーズ・レーベルが立ち上がったのだ。しかし、当時インディーズのメッカであった世田谷区日大通りのフジヤマ・レコードで、憧れのアーティストの作品群の中に自分のデモテープが陳列されているのを眼にした時、何故だかなんとも言えない悲しさと刹那さが込み上げてきたのを、今でも忘れられない。翌春、大学に入学した自分には、もはや音楽制作の夢をみる姿はなかった。僕は日々没頭して作り上げた幾重もの音源と録音機材を丸ごと全て捨て去り、家の中にあるTVまで破壊してしまった。
古い夢が海馬に記憶されているとする科学者もいる。こうした記憶が呼び戻されるためには、それ相応の手掛かりが必要になる。手掛かりが無い間、記憶は深く眠らされてしまう。生物学的に幾つもの記憶を保管する装置として海馬にも限界があるからだ。人間の記憶と電子媒体の記録の関係性には、おそらく巧みな処理が隠されていると思う。しかし、2022年の日本で生きる我々は、星の数にも匹敵する無限のインターネット情報から逃れることは絶対に出来ない。
遠い記憶が迷い込んだのは、昨夜のことである。仕事のためインターネットで自分の論文を検索中、突如迷い込んだ通販音楽サイトのディスクグラフィーに見覚えのあるジャケット写真が映し出されたのだ。瞬時に僕の心拍数は天を突き破った。4半世紀以上の時が過ぎ、長く封印されていた過去の記憶が脳裏を駆け巡り、無数の記憶が溢れるように蘇ってきた。目の前のPC画面に、今の自分と180度違う夢をみていた遠い昔の自分がいた。ただ唯一意外だったのは、今の自分がそこに悲しい気持ちを感じることはなかったことだ。たたずんでいたのは緑の葉がざわざわと生い茂る、校庭の大木の木陰で原稿用紙に反省文を書かれていた、セピア色の面影をした有りのままの自分の姿であった。遠い日の大切な一頁であるそんな光景が、日々の業務やコロナ禍の中で深く閉ざされ眠っていたのだろう。あの頃ふざけ合っていた友人はfacebookで名前を見ても、かれこれ十年以上連絡を取っていない。
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